ADR大会@仙台に参加して ―ADR普及の鍵は「人」と「集約点」ではないか―

5月29日、仙台で開催されたADR大会(全国弁護士会ADRセンター連絡協議会)に参加した。
仙台に向かう前から、この大会は少し特別な意味合いを持つだろうと感じていた。ADRの伝道師とも呼ばれた仙台弁護士会の斉藤睦男弁護士が今年1月に亡くなっていたからである。全国からADRに関わる弁護士たちが集い、会場には独特の熱気と、どこか壮大な葬儀のような静かな敬意が漂っていた。
1 仙台会のADR文化が特別な理由
仙台弁護士会は弁護士数が約500名と、全国的に見てもコンパクトな弁護士会である。その規模で、毎年100件以上のADR申立てがある。聞くところによると、今年度は出足好調で、200件に達しそうな勢いで滑り出しているという。
この数字が何を意味するか。500名の弁護士が在籍する会で毎年100〜200件のADR案件が動くということは、あっせん人・あっせん人補助者として直接関わる弁護士はもちろん、それほどADRを取り扱ったことがない弁護士であっても、例えば受任している依頼者の相手方からADRを申し立てられるといった形で、ADRに触れる可能性がそれなりに高いということになる。
自然と、ADRが「どんなものか」「誰が熱心に取り組んでいるか」という情報が弁護士全体に行き渡りやすい。会内で経験値が広く共有・還元され、ADRを勧めるべき/使うべき場面か否かといった判断軸が各弁護士にも整いやすい構造がある。
2 「一番のインフラ」は何か
今大会で最も印象に残ったのは、一つの事例報告だった。
多数当事者が関係する事案であったが、当事者となる3名全員に代理人弁護士がついており、それがADRに持ち込まれたという案件である。
弁護士が代理人として関与している事件がADRで解決されるためには、代理人全員がADRに価値を認めていなければならない。3人のうち1人でも、ADRに否定的な弁護士、あるいはADRを知らない・無関心な弁護士がいれば、その案件はADRで解決できない。
この事例を聞きながら、私はこれまで論じてきた「養育費確保のインフラ」という概念について、改めて考えさせられた。
養育費確保のインフラとして私はADRの重要性を繰り返し論じてきた(2026年5月5日ブログ「令和6年民法等改正―『対話』と『文書作成』を支えるインフラなきまま進んでよいのか」、金沢市「養サポ」事業 立案担当者のつぶやき⑩~⑬(※リンク先は⑩))。しかし、ADRそのものよりも手前に、より根源的なインフラがある。それは、ADRに信頼を寄せ、そこに可能性を見出す「人」そのものである。
仕組みやシステムがどれほど整っていても、入口にいる人がADRを選択肢として提示しなければ、それは存在しないも同然である。
そして、その「入口にいる人」は弁護士だけではない。むしろ、行政の相談員をはじめとする相談支援者の存在を見落としてはならない。
考えてみれば、弁護士のもとに相談に訪れる人は、すでに紛争性がそれなりに高まっているケースが少なくない。話し合いによる解決を旨とするADRとの親和性が、必ずしも高いとは言えない層である。一方、離婚や家族をめぐる悩みは、紛争として煮詰まる前にまず自治体の窓口や相談機関に持ち込まれることが多い。だとすれば、「話し合いで解決できるかもしれない」とADRを薦める実効的な機会が最も豊富にあるのは、実は弁護士ではなく、こうした相談支援者なのではないか。
つまり、ADRの「一番のインフラ」を厚くしていくためには、ADRの価値を信じる弁護士のファンを増やすのと同時に、離婚や家族の問題に関わる相談支援者にもファンになってもらう必要がある(要するに、彼らが「ここなら安心して繋げる」と思える絶対的な信頼の足場が不可欠なのだ)。むしろ後者の裾野こそ、家事ADR普及の成否を分けるように思う。
3 ゼロからイチの難しさと、規模の問題
仙台会の成功は、ある種の「好条件」の上に成り立っている部分がある。
どの弁護士会でもゼロからイチにすることは大変である。しかし規模がそれほど大きくない弁護士会でいったんイチになれば、その後の広がりは大規模会よりはるかに速い。互いに顔が見える関係の中で、ADRの価値を共有している弁護士が誰なのかが分かりやすいからである。
翻って、大規模弁護士会や、自治体・こども家庭庁がADRの普及を目指す場合はどうか。規模に比してADR件数があまりにも少ない状態では、なかなか広がらない。仮に依頼者がADRに興味を示したとしても、相手方や相手方弁護士がADRを知っているか、価値を置いているかが見えない中では、弁護士はADRの提案をためらいやすい。大規模会が抱えるこの構造的難しさは、今回の大会で改めて実感した。
4 日本で成功したADRの共通点
冷静に振り返ると、日本においてADRがうまく機能しているケースには共通点がある。交通事故紛争処理センター、原子力損害賠償紛争解決センター、個別労働関係紛争解決制度、フリーランス・トラブル110番ADR、国民生活センターによるADR、さらには少額債権回収の分野で目覚ましい実績を上げているワンネゴ(OneNegotiation)——いずれも、専門分野に紐づき、かつ圧倒的な利便性を備えた「一つの集約点」が用意された場合だけである、と言っても過言ではない。
逆に言えば、複数の機関が個別に普及活動を行い多様な選択肢を並列に並べるモデルや、一つのADR機関があらゆる分野の紛争を扱うモデルでは、市民にとっての「わかりやすさ」が生まれにくい。これは個々のADR業者の努力や質の問題ではない。むしろ、家事分野には市民が真っ先に思い浮かべる「集約点」が存在しないという、制度設計上の構造の問題である。意欲ある事業者がそれぞれ良質なサービスを提供していても、市民から見れば「どこに行けばいいのか分からない」状態が解消されず、その構造が各事業者の努力を打ち消してしまっている。
家事ADR・養育費ADRについて、国・自治体・弁護士会・民間がそれぞれ個別に動いて広めていくモデルには、構造的な限界があるのではないかとあらためて感じた。
5 「集約点」が必要だという結論
仙台弁護士会の熱量と地道な積み重ねに敬意を表しつつも、私がこの大会で最終的に強く感じたのは、「集約点」の必要性である。
ここで誤解のないように強調しておきたい。私が言う「集約点」は、官製ADRを新設して既存の民間ADRを置き換える、という構想ではない。むしろ逆である。すでに家事ADRに真剣に取り組んでいる民間事業者や弁護士会の力を、一つの分かりやすい受け皿のもとに束ねる「集約装置」をイメージしている。
成功している既存モデルを見ても、肝は運営主体が官か民かではない。交通事故紛争処理センターにせよ国民生活センターのADRにせよ、市民や市民に近い相談員が「揉めたらまずここ」と思い浮かべられる集約点が一つあること、これが本質である。家事分野に欠けているのは、まさにこの集約点である。
離婚や養育費をめぐって揉めたとき、裁判所や弁護士とは別に、誰もが知っている入口が一つある。そこなら、比較的カジュアルに、かつ迅速・便利に話し合いができる。担い手は実績ある民間事業者(弁護士会ADRも当然含む)であり、国や自治体はその運営を後押しする。最近はそこで解決して合意文書を作る人が増えている——そういう「空気」を作り出せれば、家事ADRは一気に広がる可能性がある。そしてその恩恵を最も受けるのは、現に汗をかいている民間の担い手たちであるはずだ。
それは、ADRの価値を信じる弁護士・相談支援者・事業者がバラバラに活動していてもたどり着けない場所だと思う。仙台会では、ADRが紛争解決の有力な一手段であるという認識が弁護士たちに広く共有されており、それが結果的に弁護士会ADRを「良い集約点」たらしめていた。家事・養育費ADRの分野でも、関係者が個々の取り組みを持ち寄って「一つの集約点」を形づくることを、もっと真剣に議論すべき時期に来ているのではないだろうか。
もっとも、先に「相談支援者の裾野こそ成否を分ける」と書いたそばから矛盾するようだが、その裾野を一人ひとり個別に説得して回るというのは、現実には無理がある。全国の窓口に散らばる相談員に、地道なボトムアップだけでADRへの信頼を行き渡らせるのは、あまりに気の遠くなる話だ。
だからこそ、ある程度トップダウンの強いリードが要る。「これからは、離婚はまずADRで話し合いましょう」という明確なメッセージを、しかるべき主体が旗印として掲げる。そうした空気が上から作られて初めて、現場の相談支援者も自信を持ってADRを薦められるようになる。「集約点」となる場は、そのメッセージを体現する象徴でもある。そして、私たち弁護士たち自身が声をあげていくことも、こうした流れと場を作る強力な推進力の一つになるだろう。
結局のところ、法務省、こども家庭庁、自治体、弁護士会、そして民間ADR——これらが競争ではなく協働の関係でタッグを組まない限り、この絵は描けないのだと思う。本当に必要なのは、新しいADR機関ではなく、既存の担い手を束ねる集約装置なのかもしれない。
青臭い理想論の匂いがすることは自分でも分かっている。それでも、誰かがこの協働を断行しなければ、家事ADRが市民にとって当たり前の選択肢になる日は、いつまでも訪れないのではないか。仙台で感じた熱気は、その「誰か」がきっとどこかにいるはずだという、ささやかな希望でもあった。
